
青春漂流とは立花隆の本のタイトルから借用した。
著者はその本で、”青春というのは、それが過ぎ去ったときに初めて、ああ、あれがオレの青春だったのかと気づくものなのである。”
青春真っ只中の時、”それが青春であるかどうかなど考えるゆとりもなく、精一杯生きることに熱中してるうちに過ぎ去ってしまうのである。”と書かれてあった。
確かに今、私がこうやって随分前のことを書いているが、今だからこそ、無我夢中だったあの日々で経験した恥や失敗を、このように淡々と書けるのかもしれない。
そして当時のことを考える時、ふと思い出すことがある。
NYで出会った独創的でユニークな生き方をしていた友のことを。
そんな友のことを少し書こうと思った。
彼との出会いはNYでmacbockを買った時だった。
それが生まれて初めて買ったPCだった。
ネット接続が上手くできなくて困っていた時、ルームメイトから彼を紹介してもらったのが始まりだった。
彼が最初に私のところに尋ねてきてくれた時、部屋に入るなり、ストリートの作品群を見て驚いた。
「山田さん、なんですか?これは!」
「すごくいいじゃないですか!」
それが始まりで、macのことよりも、絵やデザインの話など、夜更けまで尽きることなく語り尽くした覚えがある。
当時、彼の本業はグラフィックデザイナーとして、NYYGというグラフィックデザインの会社を立ち上げていた。
そして、もう一つの顔として中国武術の選手でもあった。
中国武術に関しては、全米の大会で2年連続優勝したほどの実力者だ。
元々ラガーマンだった彼が中国武術の道に進んだことはなんとなく理解もできるが、グラフィックデザインはあまり結びつかない。
彼は昔っからデザインに興味があったわけではなく、彼の行っていたNYの大学で新しくコンピュータによるグラフィックデザインコースというのができたらしい。
時代は94、5年ぐらいの時で、その頃はまだ珍しいコースだった。
彼はたまたま友人からmacを安く譲ってもらって間もない頃で、その新しくできたコースに興味と将来性を感じてそのクラスを選択した。
そして時は同じく、中国武術の門を叩いたのもその頃だそうだ。
彼曰く、中国武術ではバランスを重視していて、人が作為的にきっちりきっちり作ったモノは心地よいという考えがあるらしく、それとデザインが重なった彼は言う。
その話を聞いて、とてもユニークな視点だと思った。
そんな彼だが、ブロンクスという当時NYで最も治安が悪いと言われていた地域に住んでした。
彼の住んでいる地域の高校は、全米で最初に金属探知機が導入された高校だった。
金属探知機が導入される一週間前に、校内で銃の乱射事件があったからだ。
校門の前ではアルコールやドラッグでラリっている若者がたむろして、日本では考えられないほどの治安の悪さだ。
ある時彼は、深夜に自宅からほど近い広場で中国武術で使う青龍刀という1メートルぐらいの長さのある刀の練習をしていたらしい。
すると、背後からライトを消した2台の車が静かに近寄ってきてた。
そして突然車から人がぞろぞろ降りてきて、「Hold up!」と怒鳴られた。
振り返ると、警察官8人に拳銃を向けられていた。
近所の住民が、「デカい刀を振り回しているクレイジーな奴がいる」と警察に通報したということらしい。
流石にNYで8人の警官に拳銃を向けられた日本人もそういないだろう。
彼は私よりも6歳ぐらい若かったが、NY歴は私よりもかなり長い。
中国武術で全米チャンピオンになった彼の元には様々な仕事の依頼が入ってきたという。
スタントマンやセレブのボディーガードなどの高額アルバイトもしていて、私の知らない世界を知っていた。
彼の言葉で一番印象に残っているのが
「自分は迷ったら、Yes!って言う」
何かの会話の時に、彼がサラッと口にした言葉だった。
それを聞いた時、彼ならではの彼らしい言葉だと思った。
あるところまで考えたら、もう悩まない。
まるでサムライのような潔さを感じた。
彼はスタントマンのアルバイトの時、マネージャーから「監督には絶対にできない言うな!」と言われたらしい。
できないと言えば負けなのである。
首吊りシーンや自転車で崖から落ちる撮影など、ギリギリのところまで身体を張ってきた彼の生き様が言わしめた言葉のなのかもしれない。
そんな彼は、今は生まれ故郷の奈良を拠点に中国武術を通して様々な活動をしている。
去年は「武術コミニュケーション」という書籍も発行したりと、彼の熱量は今でも当時と変わっていない。
興味のある方は是非、下記の彼のホームページを見ていただきたい。
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