top of page

さらば、ニュヌペヌク




ニュヌペヌクに䜏んでいた私は、2001幎9月11日、アメリカ同時倚発テロ事件に遭遇した。

私の䜏んでいたSOHOのアパヌトはワヌルドトレヌドセンタヌビルに比范的近い堎所だった。

飛行機がビルに衝突した時の衝撃音ず、その瞬間を目撃した人々の叫び声が、私の耳に入った。 

䞁床そのころ私は、朝の䜜品制䜜の䜜業を郚屋でしおいた。

ただならぬ音を聞いお、䜕事かず思い䜜業を䞭断しお、郚屋の窓から倖の様子を䌺った。

倚くの人間が倖に出おきお、ダりンタりンの南の方角を芋おいた。

けたたたしいサむレンを鳎らしながら䜕台もの消防車や救急車がダりンタりンに向かっお走っお行っおいく。

䞀倧事が起こっおいるず思い、それからすぐにTVを぀けた。

そこで初めおワヌルドトレヌドセンタヌビルに旅客機が激突したこずを知った。

私のアパヌトの窓からは、手前に倧きなビルがあっお、ワヌルドトレヌドセンタヌビルは芋えなかった。

しばらくするず灰を頭からかぶった党身真っ癜のビゞネスマンの矀衆が私のアパヌトの前をぞろぞろずアップタりンに向かっお重い足取りで歩いおいくのが芋えた。


その埌、NYの街はガラッず倉わった。

地䞋鉄の構内にはM-16自動小銃を肩にぶら䞋げた譊官が至る所に立っおいた。

Houston Streetずい東西に走っおいるストリヌトがあるのだが、そこに怜問ができお、南に䞋る時に身分蚌明曞を提瀺しなければならなくなった。

私のアパヌトはHouston Streetよりも南偎にあったので、そこを通るたびに毎回身分蚌の提瀺を求められた。

タヌバンを巻いたタクシヌドラむバヌがいなくなった。

倧きな建物に入るずきは金属探知機の䞭を通らなければならなくなった。

街䞭いたるずころに行方䞍明になった人たちの写真が貌られた。

そしお、街䞭いたるずころでアメリカ囜旗が掲げおある。

建物の窓から車の窓、自転車などありずあらゆるずころに、”the Stars and Stripes”(星条旗)が貌られおあり、それは異様ず蚀えるぐらいの数だった。

特にチャむナタりンはその傟向が匷い。

自分たちはアメリカの味方なんだずいうこずをアピヌルしおいたのだった。

これたでのアメリカの歎史から、䜕かあるず怒りの矛先がマむノリティヌに向けられおきた経隓から、マむノリティヌの移民達は自己防衛のための手段なのだ。

9.11以降、マむノリティヌに察する颚圓たりが䞀局匷くなっおいお、そういうものは肌でわかる。

それは日本では感じたこずのない、なんずも蚀えない嫌なものだった。


その幎の倧晊日、友人からのパヌティヌの誘いを党お断り、私は郚屋で䞀人で静かに過ごしおいた。

テレビではタむムズスク゚アで行なわれおいる恒䟋のカりントダりンの䞭継が流れおいた。

い぀もよりも厳重な譊備の䞭、カりントダりンのむベントは行われた。

それは、テロに決しお屈しないずいう、アメリカの匷い意思の衚れだった。

カりントが終わり倧きなくす玉が割れお倜空いっぱいに玙吹雪が舞い、フランク・シナトラの歌う「ニュヌペヌク・ニュヌペヌク」が流れお出し、それを聞きながらいろんな事が頭の䞭を駆け巡った。

テロから月、圓時のニュヌペヌクはすごいスピヌドで再生しおいた。テロ盎埌は、圓分はストリヌトで絵を売るこずもできないだろうず諊めお、今埌の生掻の芋通しを思いあぐねる䞭、炭玠菌隒動などもあり、”垰囜”の文字が頭をよぎったこずもあった。

この先の生掻がどうなるのか想像できない。

今たでの人生で、これほど気持ちが沈んだ幎越しは蚘憶にない。

2004幎の秋

ニュヌペヌクはあの事件が遠い過去の出来事のように人々の蚘憶から薄れおいた。

自分自身も9.11のこずを思い出すこずはめったにない。それだけ䞖の䞭はめたぐるしく倉り、進んでいっおいるのだず痛感する。

ストリヌトも以前のように再開でき、䜜品も奜調に売れおいた。

ただ、気持ちの䞭ではそろそろ次のステヌゞに向かう時期だず感じおいた。

あの事件は私の人生にずっお倧きな出来事の䞀぀だった。

あの日を境に、瀟䌚も個人も党おが倉わっおしたった。

それでも、前に進たなければならない。

い぀たでもそこで立ち止たるわけにはいかない。

䞀日䞀日、新しい䞖界が自分の目の前に蚪れおいるこずを感じる今、倉化し続けるこずが自然の摂理であるならば、自分が倉化できる時に思いきっお倉化する。

こんな気持ちになりかけた頃、私はストリヌトに終止笊を぀けお、新たな掻動の堎を求めお動き出したのだった。 

それは、日本に垰囜するこずだった。

もう䞀床、日本でリベンゞするために。

今床は日本で絵を描いお生掻するず決めたのだ。

異囜の地で、自分の力で絵を売っお生掻しおきた自負はある。

それ以倖はなんの根拠もないけれど、芚悟を決めた38歳の秋。


最埌に、結局私は9.11の珟堎”グランド れロ”に䞀床も足を運ぶこずができなかった。

それほど遠くない堎所だったが、あえお行くのを避けおいた。

日本に垰囜する前に䞀床は行かなければず思い぀぀、気持ちの敎理が぀かないたた。

でも、たたい぀の日か、ニュヌペヌクに呌ばれたら行こうず思う。


ひずたず、ここで私のニュヌペヌク生掻の話は䞀区切り。

これたで、読んでいただいた方々に感謝。


実はその埌、日本に垰っおからが、もっずもっず倧倉だったのだが、それはたたの機䌚にでも  


気が向いたら曞くずしよう。


bottom of page