ストリート初日、最後の最後で作品が2枚売れたことで、私はストリート熱に火がついてしまった。
もしあの時、帰り際に彼女が作品を買ってくれなければ、もうストリートは多分諦めていたと思う。
それはほんの小さな出来事だったが、これが運命の分かれ道というものだろう。
なぜなら、私のNY生活でもっとも色んなことを経験し、学んだのがストリートなのだから。
私は毎週、ストリートが終わった翌日の月曜日の朝に、チャイナタウンにある大きな画材屋に行く。
作品で使用するお気に入りの紙を買うのが月曜の朝のルーティーンになっていた。(紙が高いので、一度に沢山買うお金がなくて、売れたら買うという感じだった。)
その画材屋には紙専用のフロアがあり、何十種類?もの紙が置いてある。
紙を購入する時は紙売り場の店員に紙の種類と、紙の表面の荒さと、紙の厚さと、必要枚数などを細かく伝えなければならない。
毎回私が同じものを注文するので、いつしか私がいちいち紙の種類を伝えなくても、店員はアイコンタクトで用意してくれるようになった。
ストリートの作品は月曜から土曜の朝までに自宅のアパートで平均約6枚、多い時で8枚以上制作していた。
基本的な生活のサイクルは朝から昼まで、学校へ行くまでの間にストリートの作品を制作をし、昼から夕方まで、もしくは夜までは学校で彫刻などの作品を作り、そして学校から帰宅して寝るまでの間に再びストリートの作品制作をするといった感じだった。
要は朝起きてから夜寝るまでずっと何かしらの作品を作っていた感じだった。
まさに私のNY生活は文字通り作品制作三昧になっていた。
ストリートの作品作りは1日のうち、朝と夜の2回に分けていたが、それは昼の間に絵の具を乾燥させるのに好都合だった。
作品は1枚仕上げるのに最低4日から5日は必要なので、同時進行で作品を制作する。
それでも作品が週末までに完成できないようであれば、学校を休んでまでもストリート優先で制作をしていた。
そんな私の生活を、クラスメート達の目にはとても大変そうに映っていたに違いない。
しかし、当の本人はそんな生活が楽しくてしかたがなかった。
私はストリート初日以降、何度か場所を変えながら、やっと定位置を確保した。
その場所はある高級婦人服のお店の前だった。
お店の入り口が少し歩道から奥まったところにあり、入り口までのアプローチに笹が植栽がされ、ストリートの喧騒が少し遮断され、落ち着いた雰囲気がとても気に入っていた。
そんなお店の前に作品を並べるなんて、おそらく日本ならありえないだろうが、お店の人から一度たりともクレームをもらったことはない。
それどころか、店員さんが休憩時間にコーヒーとタバコを吸いに外に出てきて、その時に「今日はビジネスはうまくいってる?」なみたいな、作品の話から世間話まで、何かと話しかけられ、私はいつしかそこの店員さんともすっかり仲良しになった。
そして店員さんが何枚か私の絵も買ってくれたりした。
そして、ストリートで一つ問題なのが、トイレなのだ。
公衆トイレとかないので、どこかのお店のトイレを借りるしかない。
私は道路向かいの高級イタリアンレストランのトイレをよく借りていた。
ここも毎週出てきいると、やはりマネージャーやウエイターとも顔なじみになり、「遠慮しなくていいよ。」みたいに使わしてくれる。
やはり、NYはアーティストに対して寛容なのだ。
私はストリートに毎週出て行くようになって、徐々に他のアーティストからも話かけられるようになった。
例の初日に揉めたあの男とも、普通に会話するような仲になっていた。
ストリートは、出してはすぐに辞めていくアーティストが多い中で、毎週出てきている私のことを、少しは根性のある奴だと認めてくれたのかもしれない。
ストリートのアーティストは一度認めてくれると、それからは仲間として、同士のような存在になるのだ。
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