ストリート初日 1/3

更新日:2021年6月22日


公募展に出していた頃の作品

ストリートに自分の絵を並べて、ましてや自分で売るなんて、人生で初めての経験だった。 もちろん、その時はTAX IDなんてものは持ってなかったし、存在すら知る由も無い。 すなわち、もし警察が来たらアウトだ。 見つかれば、私は直ぐに違反切符を切らるだろう。 実のところ、勝手にストリートで絵を売って良いのか悪いのかさえも、この時はあまりよくわかっていなかった。 ただ、経歴もコネもお金もない私にとって、作品を多くの人に観てもらうには、ストリートに作品を並べるぐらいのことしか思いつかなかった。 リスクはあるが、自力でできることは極限られている。 ほんの少しでも可能性があるのなら、今はそれに賭けるしかないのだ。 朝の7時ぐらいに適当な場所を見つけ、作品を展示する自作の小さなイーゼルを2つ置いてみた。 2つのイーゼルは存在感が薄く、まるで今の私と同じようによそ者感が半端なく、ストリートに遠慮しているように思えた。 ストリートに持ってきた作品は、アクリル絵具を使って描いた抽象画の作品だった。 その作品は、NYで感じた空気感、それに反応する自分の感情、様々な言葉にならないイメージの断片を色で表現した作品だった。 水で薄く溶いた絵の具を塗っては乾かし、塗っては乾かし、何層もの絵の具の層が重なり、シンプルだけど深みのある色の作品。 今までの作品とは明らかに違う。 作っていてこれほどワクワクしたのは久しぶりだった。 それまでの私の作品は、油絵で面相筆という細い筆を使って、対象物を本物のようにリアルに描く写実画だった。 当時の私はいろいろ考えすぎて、とっても観念的というか、まったく窮屈な作品を作っていたのだ。 今思い返すと、全然下手くそだったけれど、あの時だから描けた作品とも言える。 もうあんな作品は二度と描けないだろう。 私が23歳の時だと思う。 東京都立美術館で開催される、ある公募展に大作を出展した。 その公募展は伝統的な技法と穏健な写実絵画を追求する会の公募展だった。 展示会場は1室から20室ぐらいまであって、優秀とされる作品が1室から展示される。 そして1室から8室ぐらいまでの作品はゆったりと展示されるが、9室以降からは段々と作品の展示数が増え、1段掛けだったものが2段3段掛けと壁を埋め尽くす窮屈な展示になる。 私は初出展で入選したものの、作品は18室の3段掛けの一番上に展示されていた。 壁から離れて距離をとって見上げなければ作品がよく見えなかった。 その後私は毎年出展するのだが、辛うじて入選するものの相変わらず16室とか18室に作品は展示されていた。 やはり1室から8室までに展示されている作品は会のエリートと大先生の作品で占められて、殆どが東京芸大卒で構成されたメンバーだった。 美術の世界でも一般社会と同じく、エリート主義には変わりはないのだ。 その展覧会は毎年春に開催されるので、それを観るために毎年春には上野へ行っていた。 当時は上野公園内に東京都立美術館はあった。 上野公園はお花見の人でいつも大賑わいだったが、私は満開の桜を愛でる心の余裕などあるはずもなく、今年はどこに飾ってあるだろうかと期待と不安が交互に押し寄せ、落ち着かない気持ちで足速に人混みをかいくぐり会場へと向かう。 会場は必然的に1室から順に見ていく形になっており、最初にエリートたちの圧倒される作品を見てから、会場の最後あたりで自分の作品を見つけるのだった。 出展のために数ヶ月もかけて作品を完成させ、荷造りを終えて作品を送った時は、なんとも得がたいやりきった満足感で、その時は心は満たされる。 しかしそれから数日が過ぎ、いざ会場に行って自分の作品を見つけた時の、その心の落差といったら。 私はお決まりのように、帰りの新幹線では打ちひしがれた心のまま岡山に帰るというのが、春の恒例行事となっていた。 ところが5年目の春、私はその会である賞を受賞した。 そして一般出展者という立場から会友に引き上げられ、もう落選はない身分となった。 しかし、次の年に自分は写実表現をやめて、半立体のNYの窓をイメージした抽象的な作品を出展して、あっさりその会を辞めてしまった。 聞くところによると審査員の先生方からは「けしからん作品だ」と怒りをかい、評価は最低だったらしい。 ただ、もうこれ以上誰かの目を気にしたり、先生方の顔色を伺ったり、とにかく会の出展のための作品は作りたくなかった。 たとえ反感を買うような作品であっても、自分が作りたいものを最後に作って出展してやった。 黙ってひっそりと会を辞めればいいものを、最後に自分の存在に気づいてくれと言いたかったのかもしれない。 そんなことをしたって全く意味のないこともわかっているが、あの時の自分はそうせざるをえなかったのだろう。 それが28歳の頃だが、それからNYに行くまでの5年間、私は表現する楽しさを失い、人生の目標も失い、自分を誤魔化し、悶々としながら生きていた。